大塔の宮護良親王の兜の謎
大塔の宮(おおとうのみや)護良親王(もりよししのう)の兜
―須川家に伝わるとされていたー
明治時代半ばまで須川 長右衛門家の家宝であったが、中平の永詳寺の火災で失われたと言われている。この話は親族の間や地元ではよく知られていたが、その由来に関しては語られていなかった。兜の存在は熊楠の須川家口述文に2回も述べられており、彼はこの兜が須川氏のなりたちに関係あるのではと推察していた。由来の兜と同じものが国立博物館の所蔵で先日、展示された。須川家の伝聞にも言われているようにとてもユニークな形状だ。吹き返しがしころと一体の小札で構成されている。この兜が須川家に伝わっていたことは客観的に事実であったと思われる。ではなぜ存在していたのか?
前立は三鍬形であり凄い。文化庁所蔵紅糸威星兜、護良親王兜
なぜ、護良親王の兜が須川 長兵衛家に。これは最大の謎で、その理由を熊楠も述べていない。
護良親王は14世紀半ば、御醍醐天皇と鎌倉幕府体制と足利幕府開府に反抗し、最後は鎌倉で殺害された。元弘4年(1335年)28歳だった。
14世紀初期、元弘元年(1331年)9月には笠置山(かさぎやま)で挙兵し、敗れ般若寺(はんにゃじ)に潜んだと言うことだが、この2点は距離的には10kmもなく中間点が須川城だ。須川家が熊野で記録されるのは17世紀初頭なので、兜は奈良の須川城で須川氏が親王から下賜ったものであった、そしてその際に様々な物語があった可能性が高い。護良親王が須川城に滞在したかもしれない。須川一族は16世紀末に、奈良から熊野への移転にもこの兜を家宝として大切に運んだのではないか・・と言うのが私の推測だ。(移転の理由はおって記す)
大塔の宮より兜と杯を賜る須川 長兵衛 元弘元年1331年
現在、文化庁が保管する護良親王の兜の由来は聞いてはいないが
問い合わせてみる価値はあろう。
熊楠も明治後期、上野の国立博物館の所蔵品に見たとしている。
この実物が須川家に伝わったものとすれば保存の程度が良すぎる気もする。
護良親王には楠 正成が呼応し尊王のシンボルとして明治維新直後に人気が出た。
元弘元年に奈良で須川氏を繋がりがあったことから、須川には天皇家の云々の話も出来たのかも知れない。
大塔の宮
この絵では兜はない
なお、護良親王は吉野、十津川などに移動した記録があるが、熊野の奥地まで入ったとか本宮にまで来られたかの記録はない。
従って、熊野に14世紀須川家がいたとしても兜が伝承される可能性は低かった。また、須川氏が源氏村上氏であったなら親王との
関係は敵対であった。
明治政府は明治初期、全国の天皇家にゆかりのある遺物の発掘を行っていたそうだ。地元の話でも、明治初期に偉い学者がこのユニークな兜のことを聞きつけて調査に来たことがあったとされている。
永詳寺の火事で焼けたとする記録と合わない。
兜は初めから終わりまで謎の多い存在だった。
追)
親王さまと言えば、誰も信じてくれないが、私は常陸の宮さまとお風呂に入ったことがある。2010年頃、千葉県のゴルフ場に妻と二人で行った。前の組に宮様ご夫妻がおられるとのこと。支配人が我々なら打ち込みなどのご無礼がないだろうとしたのだろう。初秋、天気の良い、平日でゴルフ場は空いていた。ゴルフが終わり大浴場に行った。この浴場は横長で一面のガラス、外は四季折々の景色が眺められる付き庭、広々した気持ちの良い風呂だった。風呂場は誰もおらずそのまま湯舟にドボンと。どなたか一人、ひっそりと浸かっていた。
体を洗い脱衣所にあがったら、常陸の宮様が私の裸を眺めるともなく、籐の丸椅子に腰かけて下着姿でマルボーロをくゆらせていた。
会釈をして私も支度を、いつもいる係員は離れて場所に、入口に黒い頭が見えていたが、警護であったろう。
宮様は穏やかに微笑み2本目のマルボーロに火を付けた。下着は絹の真っ白でなく少しベージュかかった色で、形はパンツ、ボックスでもブリーフでもない、シャツはスリーブがあるようなない、独特な形だったのを記憶している。
常陸の宮さまは火星さまと親しまれている。
現在の親王は眞子さまの父上秋篠宮であり、親王というのは天皇家にとっては継承権があり大変な存在なのだ。
僕と常陸宮様二人だけが風呂場にいたというのは当時のゴルフ場の状況から考えると、謎だった。