天正12年1543、須川長兵衛 藤八親子討ち死す
16世紀になると大和の国も戦乱に明け暮れた。巨大寺社の権威が衰えて、外からの悪党と言われる勢力が入ってきたからだ。
三好、松永、筒井などだ。
寺社の荘園も安穏としておられない。誰かについて戦うしかなかった。須川、柳生、狭川・福岡は地域性を生かし同盟関係を作った。
多門院日記、天正12年、
現在は電子的に検索できるが、杉田 定市さんは興福寺に行き閲覧してきた
天正12年4月16日。「今暁従筒井簀川へ被取懸了」に始まる記録がある。「筒井 順昭自らが出向き、簀川(すがわ)の3つの城のうち2城が落ちた。簀川では簀川 藤八と息子、20数名が討ち死にした。本城は未無退城、筒井の手負いは数限りなし、討ち死にも多数。寄せ手は6000騎以上、城なかには僅か5-60騎云々、弓を取りて名誉不過簀川は誠に可ちょう良の武士かな」と最大級の誉め言葉。この落城後の様子の記録を杉田さんは探すとしていたが、一族全員が死亡したわけでなく、本城から多くの一族が逃れたようだ。
逃れれば興福寺内に、笠置山に、柳生に福岡にと逃げ隠れできるところがあった。
その2年前。
天文10年11月26日、
「伊賀衆笠置城に放火」の記事の中に付近の権力、木澤、小柳生、
簀川、六角、細川、三宅、伊丹、池田、三好、伊賀衆と畿内の権力者古市の小競り合いに出てくるのは伊賀の忍者と一緒に簀川の名前がある。なかなかきな臭い展開だし、ドラマチックな展開だっただろう。
このように様々な勢力間を興福寺の威力のある限りわたり歩いていたのだが、筒井勢が力を増すと形勢が悪くなったのだろう。
新人物往来社日本城郭体系10、三重奈良和歌山編には以下のごとくある。
須川城
須川は笠置に流下する白砂川の支流、前川の上流にあり、その下流は狭川である。簀(須)川庄の下司簀川氏は、康正三年(1457)に初見する一乗院方の国民である。応仁の乱では古市方に従い、以後、戦国初期にかけて、狭川氏と共に大体、古市方であったが、福智庄大柳生をめぐって狭川氏としばしば対立した。天文10年(1541)に木沢 長政に従っていたが、小柳生と共に裏切って木沢方の笠置城を襲った。長政に死後、筒井 順昭と対立し、同十二年四年十六日、順昭自らが率いる六千余の大軍に攻められた。当時、簀川に城は三つあり、まず二の城が落ち、簀川方の屈強の者たち二十余人が討死した。
死者の中に簀川 藤八親子の名が知られる。和束の者も一緒に討死した。本城は五-六十騎で守っていたが、翌日、多田氏の仲介で簀川氏は当尾に落ち、城は破却された。(多門院日記)
しかし、戦国時代末期には狭川、柳生と両氏と組んで万亀年間(1570-73)の松永・筒井両勢力の抗争時は、松永方にあって須川は郡山の付城に在番した。
降りて来たところのくぼみにある池
天文年間(1532-55)に三か所あったと言われる城のうち、当城がどれに当たるか不明であるが、現在、須川で確認できた城跡は当城だけである。当城は須川から大柳生へ越える道を扼する山上にある。
長辺29mの梯形の城郭の四周に低い土塁が巡っている。北隅に小さな腰郭が付属するが単郭の小城郭である。立地を規模から推して、物見の砦であろう。土塁に囲まれている形は狼煙台を想定させる。
昭和五十三年に、関西電力の鉄塔工事の影響で南面土塁の東半分が破壊されたのが惜しまれる。」とある。
奈良須川城は関西に多くいる城巡りの研究家の訪れる城のひとつらしく、様々なサイトに現れる。峠にある中学校の横から入り、上まで登った感想などが掲載されている。
須川 長兵衛 藤八親子4人が筒井勢との勝ち目のなり戦闘に及んだ時、
推察するに藤八は40歳を少し超えたくらい、息子は10代後半だったのでは。記録では3人の息子が討ち死にしたとある。
その他にも和塚 北五郎と言う家臣も。55騎しかの勢力で、
寄手、筒井方6000に大きな損害を与え、中坊 保利茂と言う武将が
須川に討たれ、その死傷者は数限りなかったと。
須川 長兵衛 藤八らは残りの一族の安全のために時間稼ぎか、名目の理由で戦ったのではないか?いずれ興福寺のためだけに戦ったのではない。
家族、一族のために戦ったのだろう。多門院日記では彼らの武将としての名誉をこれ以上ないほど礼賛していたが。
残りの城は開城したが、一族はしばらくして帰り、まだしばらく
様々な戦いに巻き込まれた。
戦う須川 長兵衛 藤八 それなりにカッコよい先祖だ
天正12年1543年は種子島に鉄砲が伝来した年だ。いみじくも日本の中世はこの武器により終わりつつあった。近世をみることなしに
死んだ藤八親子、もしかしたら時代の変わり目は感じていたかもしれない。大和武士の最後にふさわしい。
大和須川の山道
なお、永禄2年1566、藤八親子の討ち死にから23年経っていたころ、須川は筒井方になっており、付近の勢力と共同して松永氏と対抗していた。
大和北部のこの勢力を山中4個郷衆と呼び、それらは須川、狭川福岡、柳川(柳生)と、とも地、であった。
須川氏は一部が戻り戦国の戦いを続けていたようだ。日本の中世が終わり、近世が始まるまでの宿命であっただろう。