日本の戦乱と平和 

「日本の戦乱と平和」にみる歴史はこの国の戦乱と平和は極端なる波だ。

近代に入り、明治維新から第二次大戦終了までの75年間とその後、現在までの75年間を見るとその差は極端である。政治、経済、社会そして国民の意識が真逆である。しかしここ約2年間続いたコロナ禍と中国やロシアそして北朝鮮の覇権的・強権的行動、この地域のミサイルや核の拡大化など、戦後75年間の平和期は明らかに大きな曲がり角に来ている。

戦争をステレオタイプな悲惨さで表現する単純な思考では日本と

国民は生き残れない。意識の変革が必要である。

日本は神話から歴史は生まれ、現在は近代的民主国家である。

1200年頃から武家社会が確立され、その文化、鎧、刀剣、長弓などの武器は類を見ない完成度が高かった。そして応仁の乱に始まる戦国期が続いた。その原因は元寇だったと歴史学者は言う。16世紀半ばの鉄砲伝来、が瞬く間に大規模使用され、戦国時代は終わり約250年間の鎖国・平和期が続いた。極端な流動であった。

19世紀半ばの戊申戦争、明治維新に始まる富国強兵時代(約75年間)その兵器近代化の核をなしたのは、機械工学と無煙火薬採用に

よる機関銃の出現と採用だ。多種の近代兵器、航空機や艦艇の開発製造、活用が続き、核による攻撃を受けた世界唯一の国だ。

歴史に学ぶは賢者であり、経験に頼るは愚者である。

武器兵器は胡散(うさん)臭い、こういう世論は終わりにし、客観的に歴史を学びたい。(令和3年11月3日)

 

天正12年1543、須川長兵衛 藤八親子討ち死す

16世紀になると大和の国も戦乱に明け暮れた。巨大寺社の権威が衰えて、外からの悪党と言われる勢力が入ってきたからだ。

三好、松永、筒井などだ。

寺社の荘園も安穏としておられない。誰かについて戦うしかなかった。須川、柳生、狭川・福岡は地域性を生かし同盟関係を作った。

多門院日記、天正12年、

 

現在は電子的に検索できるが、杉田 定市さんは興福寺に行き閲覧してきた

 

天正12年4月16日。「今暁従筒井簀川へ被取懸了」に始まる記録がある。「筒井 順昭自らが出向き、簀川(すがわ)の3つの城のうち2城が落ちた。簀川では簀川 藤八と息子、20数名が討ち死にした。本城は未無退城、筒井の手負いは数限りなし、討ち死にも多数。寄せ手は6000騎以上、城なかには僅か5-60騎云々、弓を取りて名誉不過簀川は誠に可ちょう良の武士かな」と最大級の誉め言葉。この落城後の様子の記録を杉田さんは探すとしていたが、一族全員が死亡したわけでなく、本城から多くの一族が逃れたようだ。

逃れれば興福寺内に、笠置山に、柳生に福岡にと逃げ隠れできるところがあった。

その2年前。

天文10年11月26日、

「伊賀衆笠置城に放火」の記事の中に付近の権力、木澤、小柳生、

簀川、六角、細川、三宅、伊丹、池田、三好、伊賀衆と畿内の権力者古市の小競り合いに出てくるのは伊賀の忍者と一緒に簀川の名前がある。なかなかきな臭い展開だし、ドラマチックな展開だっただろう。

このように様々な勢力間を興福寺の威力のある限りわたり歩いていたのだが、筒井勢が力を増すと形勢が悪くなったのだろう。

新人物往来社日本城郭体系10、三重奈良和歌山編には以下のごとくある。

須川城

須川は笠置に流下する白砂川の支流、前川の上流にあり、その下流は狭川である。簀(須)川庄の下司簀川氏は、康正三年(1457)に初見する一乗院方の国民である。応仁の乱では古市方に従い、以後、戦国初期にかけて、狭川氏と共に大体、古市方であったが、福智庄大柳生をめぐって狭川氏としばしば対立した。天文10年(1541)に木沢 長政に従っていたが、小柳生と共に裏切って木沢方の笠置城を襲った。長政に死後、筒井 順昭と対立し、同十二年四年十六日、順昭自らが率いる六千余の大軍に攻められた。当時、簀川に城は三つあり、まず二の城が落ち、簀川方の屈強の者たち二十余人が討死した。

死者の中に簀川 藤八親子の名が知られる。和束の者も一緒に討死した。本城は五-六十騎で守っていたが、翌日、多田氏の仲介で簀川氏は当尾に落ち、城は破却された。(多門院日記)

しかし、戦国時代末期には狭川、柳生と両氏と組んで万亀年間(1570-73)の松永・筒井両勢力の抗争時は、松永方にあって須川は郡山の付城に在番した。

降りて来たところのくぼみにある池

 

天文年間(1532-55)に三か所あったと言われる城のうち、当城がどれに当たるか不明であるが、現在、須川で確認できた城跡は当城だけである。当城は須川から大柳生へ越える道を扼する山上にある。

長辺29mの梯形の城郭の四周に低い土塁が巡っている。北隅に小さな腰郭が付属するが単郭の小城郭である。立地を規模から推して、物見の砦であろう。土塁に囲まれている形は狼煙台を想定させる。

昭和五十三年に、関西電力の鉄塔工事の影響で南面土塁の東半分が破壊されたのが惜しまれる。」とある。

奈良須川城は関西に多くいる城巡りの研究家の訪れる城のひとつらしく、様々なサイトに現れる。峠にある中学校の横から入り、上まで登った感想などが掲載されている。

須川 長兵衛 藤八親子4人が筒井勢との勝ち目のなり戦闘に及んだ時、

推察するに藤八は40歳を少し超えたくらい、息子は10代後半だったのでは。記録では3人の息子が討ち死にしたとある。

その他にも和塚 北五郎と言う家臣も。55騎しかの勢力で、

寄手、筒井方6000に大きな損害を与え、中坊 保利茂と言う武将が

須川に討たれ、その死傷者は数限りなかったと。

須川 長兵衛 藤八らは残りの一族の安全のために時間稼ぎか、名目の理由で戦ったのではないか?いずれ興福寺のためだけに戦ったのではない。

家族、一族のために戦ったのだろう。多門院日記では彼らの武将としての名誉をこれ以上ないほど礼賛していたが。

残りの城は開城したが、一族はしばらくして帰り、まだしばらく

様々な戦いに巻き込まれた。

戦う須川 長兵衛 藤八 それなりにカッコよい先祖だ

 

天正12年1543年は種子島に鉄砲が伝来した年だ。いみじくも日本の中世はこの武器により終わりつつあった。近世をみることなしに

死んだ藤八親子、もしかしたら時代の変わり目は感じていたかもしれない。大和武士の最後にふさわしい。

大和須川の山道

 

なお、永禄2年1566、藤八親子の討ち死にから23年経っていたころ、須川は筒井方になっており、付近の勢力と共同して松永氏と対抗していた。

大和北部のこの勢力を山中4個郷衆と呼び、それらは須川、狭川福岡、柳川(柳生)と、とも地、であった。

須川氏は一部が戻り戦国の戦いを続けていたようだ。日本の中世が終わり、近世が始まるまでの宿命であっただろう。

 

 

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大塔の宮護良親王の兜の謎

大塔の宮(おおとうのみや)護良親王(もりよししのう)の兜
―須川家に伝わるとされていたー

 

明治時代半ばまで須川 長右衛門家の家宝であったが、中平の永詳寺の火災で失われたと言われている。この話は親族の間や地元ではよく知られていたが、その由来に関しては語られていなかった。兜の存在は熊楠の須川家口述文に2回も述べられており、彼はこの兜が須川氏のなりたちに関係あるのではと推察していた。由来の兜と同じものが国立博物館の所蔵で先日、展示された。須川家の伝聞にも言われているようにとてもユニークな形状だ。吹き返しがしころと一体の小札で構成されている。この兜が須川家に伝わっていたことは客観的に事実であったと思われる。ではなぜ存在していたのか?

前立は三鍬形であり凄い。文化庁所蔵紅糸威星兜、護良親王兜

なぜ、護良親王の兜が須川 長兵衛家に。これは最大の謎で、その理由を熊楠も述べていない。

護良親王は14世紀半ば、御醍醐天皇と鎌倉幕府体制と足利幕府開府に反抗し、最後は鎌倉で殺害された。元弘4年(1335年)28歳だった。

14世紀初期、元弘元年(1331年)9月には笠置山(かさぎやま)で挙兵し、敗れ般若寺(はんにゃじ)に潜んだと言うことだが、この2点は距離的には10kmもなく中間点が須川城だ。須川家が熊野で記録されるのは17世紀初頭なので、兜は奈良の須川城で須川氏が親王から下賜ったものであった、そしてその際に様々な物語があった可能性が高い。護良親王が須川城に滞在したかもしれない。須川一族は16世紀末に、奈良から熊野への移転にもこの兜を家宝として大切に運んだのではないか・・と言うのが私の推測だ。(移転の理由はおって記す)

大塔の宮より兜と杯を賜る須川 長兵衛 元弘元年1331年

 

現在、文化庁が保管する護良親王の兜の由来は聞いてはいないが

問い合わせてみる価値はあろう。

熊楠も明治後期、上野の国立博物館の所蔵品に見たとしている。

この実物が須川家に伝わったものとすれば保存の程度が良すぎる気もする。

護良親王には楠 正成が呼応し尊王のシンボルとして明治維新直後に人気が出た。

元弘元年に奈良で須川氏を繋がりがあったことから、須川には天皇家の云々の話も出来たのかも知れない。

大塔の宮

この絵では兜はない

なお、護良親王は吉野、十津川などに移動した記録があるが、熊野の奥地まで入ったとか本宮にまで来られたかの記録はない。

従って、熊野に14世紀須川家がいたとしても兜が伝承される可能性は低かった。また、須川氏が源氏村上氏であったなら親王との

関係は敵対であった。

 

明治政府は明治初期、全国の天皇家にゆかりのある遺物の発掘を行っていたそうだ。地元の話でも、明治初期に偉い学者がこのユニークな兜のことを聞きつけて調査に来たことがあったとされている。

永詳寺の火事で焼けたとする記録と合わない。

 

兜は初めから終わりまで謎の多い存在だった。

 

追)

親王さまと言えば、誰も信じてくれないが、私は常陸の宮さまとお風呂に入ったことがある。2010年頃、千葉県のゴルフ場に妻と二人で行った。前の組に宮様ご夫妻がおられるとのこと。支配人が我々なら打ち込みなどのご無礼がないだろうとしたのだろう。初秋、天気の良い、平日でゴルフ場は空いていた。ゴルフが終わり大浴場に行った。この浴場は横長で一面のガラス、外は四季折々の景色が眺められる付き庭、広々した気持ちの良い風呂だった。風呂場は誰もおらずそのまま湯舟にドボンと。どなたか一人、ひっそりと浸かっていた。

体を洗い脱衣所にあがったら、常陸の宮様が私の裸を眺めるともなく、籐の丸椅子に腰かけて下着姿でマルボーロをくゆらせていた。

会釈をして私も支度を、いつもいる係員は離れて場所に、入口に黒い頭が見えていたが、警護であったろう。

宮様は穏やかに微笑み2本目のマルボーロに火を付けた。下着は絹の真っ白でなく少しベージュかかった色で、形はパンツ、ボックスでもブリーフでもない、シャツはスリーブがあるようなない、独特な形だったのを記憶している。

常陸の宮さまは火星さまと親しまれている。

現在の親王は眞子さまの父上秋篠宮であり、親王というのは天皇家にとっては継承権があり大変な存在なのだ。

僕と常陸宮様二人だけが風呂場にいたというのは当時のゴルフ場の状況から考えると、謎だった。

 

 

 

 

南方 熊楠(みなかた くまぐす)と須川家

熊野の須川家は江戸期初頭、17世紀になってからの系譜は分かっている。叔父須川 章夫と従兄 市朗がまとめた。しかし江戸中期以前、数百年は不詳、天皇家に繋がりがあった村上家と言う。
南方 熊楠が口述した「紀州須川家」大正14年3月「東牟呂郡請川村の須川家」5ページ分には川湯の須川 得郷家のことが目的に書かれたようだが、得郷家の分は茶化したような内容で2ページ、そして3ページほどは一番古い須川 長兵衛家に関してのものだ。また江戸期以前、戦国期の様子がある。その中に2度、大塔の宮(おおとうのみや)、護良親王(もりよししんおう)の兜の話が出て来る。
と。熊楠はこの兜は明治政府が天皇家ゆかりのものを収集した際に集めたものと推測しているように口述しているが・・
熊楠が紀州須川家ルーツに関して口述した内容はふざけて調子と事実でない内容もあるが、大筋は具体的、客観的で私はある程度、正確な内容・・と思う。
この文は口述なので、語りたいコンテンツの合間のおしゃべりも同等に記述されているので、信ぴょう性が疑われていた。
でも内容は奈良の民俗研究家杉田 定市さんに依頼して古文書などからまとめられた内容で信用できる。(別途記す)
大正期、田辺の歯科医須川 寛徳氏と熊楠が知り合いで寛徳氏の
先祖、請川の須川 忠兵衛家の話を口述しているうちに長兵衛家
(長右衛門家)の話と混同したのだった。

熊楠は大変な人だった。現在、小口の須川 謙一(父の従弟)の
家だったところには、南方さんと言う方が住んでいる。南方と須川は、何かの縁があったのだろう。
熊楠は植物学、民俗学の権威であり、明治期にメトロポリタン博物館と大英博物館の学芸員の資格を保持していた。言語力、観察力、分析力に秀でた人だ。その彼が須川家に関心を抱いて呉れたのは実に我が家の歴史を研究する意味で助けになった。また彼の独特の事象を多角的に結び付け結論を出す科学的手法は現在でも学術研究には使われており、分析力は信用できる。
独特の性格で茶化したり、冗談を交えてはいるが・・・

別冊太陽平凡社 南方 熊楠集

熊楠はエコロジー論の元祖のような研究者で紀伊半島の植物、特に粘菌の発見に功績があった。昭和天皇のご研究史にもその活動は出て来た。那智と、田辺に住み熊野一体は彼の縄張りであった。
紀州須川家に関しては田辺の須川歯科の当主とお話したが、須川歯科のことから口述始めたらしいがおおよその具体的内容は須川 長兵衛家のことだった。請川、川湯薬師寺の石塔などの寄進物は須川歯科のご先祖須川 忠兵衛家の寄進によるものだそうだ。


現在、多くは災害で倒れ、この手水鉢が残っている。
熊楠が採集に行く途中、須川家寄進の手水鉢を見ている図
「寛永弐年申 須川忠兵衛 寄進」とあり、五三の桐、表裏紋が大きく側面に入っている。紋は長兵衛家を同じであり、17世紀初頭
血縁があったことを示している。長兵衛と忠兵衛は兄弟か従弟同士であった可能性は高い。寛永二年は1625年、徳川家の統治が始まった頃だ。

私が撮影した実物

熊楠の須川家に関して口述した記事は南方熊楠全集6に5ページにわたり記載されているが、HPでも「紀州須川家」で検索できる。
4つの記事になっている。

彼が言うように植物研究で知り合った奈良県北部山添に明治から大正時代にかけて、杉田 定市さんがまとめた「柳生六百年史」の中に
「須川 長兵衛」と言う柳生新陰流の高弟がおり、その名前に興味を持ち調査してもらったのだ。
熊楠が昭和天皇ご興味を持たれたテーマを研究した田辺には
熊楠顕彰館という立派な設備があり、学芸員さんが熊楠と杉田さんの交換文書と「柳生六百年史」を公開してくれた。田辺には彼の植物研究の聖地、天然記念物、神島がある。彼の住居も移築されていた。
奈良市教育委員会によると杉田さんは奈良県北部の郷土史研究家で
一揆の記録を発見した人だそうだ。
杉田 定市さんの熊楠への報告は地図も添付され真面目な内容だ。
彼の研究テーマ上、須川 長兵衛のちの柳生 内蔵助の消息に関する情報は多いがまた大和須川氏に関しては多門院日記や奈良、京都の古文書を参考に正確な内容と判断できる。
また熊楠は大和武士は寺社の大和支配を背景にして発生したので、
平家も源氏もないと言う考えであった。

田辺の南方 熊楠顕彰館
〒646-0035和歌山県田辺市中屋敷町36番地