日本への機関銃導入と開発
すがわ しげお
須川 薫雄

写真①三年式重機関銃(1914年)6.5mm と九九式軽機関銃(1939年)7.7mm

目次

1 はじめに機関銃採用は「第二の鉄砲伝来」であった

2 日本の武器・兵器開発生産の波3 機関銃の開発

4 機関銃の種類と機構

5 日露戦争が証明した機関銃戦闘の効果

6 日本は「ホチキス」国だった

7 航空機と車両が機関銃を発達させた

8 結論19世紀初頭機関銃を採用した意義

 

 

1 はじめにこの研究は私の在米中11年間にわたって行われたものである。日本では研究とはいえ機関銃を操作し射撃することは出来ない。また実物もごく限られたところにしか残されていない。おそらく戦後、この種の日本兵

器の操作・射撃に時間を費やした日本人は私が最初で最後であろう。

ここでは、日本の機関銃の実物、その採用の背景、武器技術の進歩などを通して、19世紀末の機関銃採用・生産は「第二の鉄砲伝来」と捉えた。

時代を超えて火縄銃から機関銃まで、幅広く、奥深く、日本の武器兵器の開発、技術、歴史的背景を研究すること、特に現存する実物からの研究は、日本の歴史の現実と具体性を証明することである。

2 日本の武器・兵器開発生産の波戦国期から現在まで、日本の歴史は「戦乱期」と「平和期」の大きな波を示している。

戦国時代約100年間、江戸時代約250年間、幕末・軍国時代約80年間、平和民主期63年間である。

戦国期に「鉄砲」が伝来した。
軍国期には「機関銃」が伝来し、採用された。

この二つの事実は日本の武器技術発達上、特に重要な事実であった。

図面①日本は歴史的に兵器開発に積極的で高い技術を持っていたが、この60余年、軍は1発も発射せず1人も倒してない、世界的、歴史的に稀なる平和期を享受している。

機関銃の開発19世紀の後半、マキシム、ホチキス、ビッカーズ、ブローニング、コルト、スコダ、など各種の機関銃が開発されたが、その背景は以下にまとめられよう。

  1. 1. 火器に使う火薬が黒色火薬から無煙火薬になった。フランスのB火薬1884年が嚆矢だろう。
  2. 2. 弾丸が被甲されるようになった。
  3. 3. ライフル銃身製造技術の向上。耐久性の高いエンフィールド、メトフォード施條。

機関銃の定義とは

• 引き金(押し鉄)を引いている限り、何らかの方式で弾丸が自動的に供給され、発射され、排夾される自動銃のことである。
• 射程距離は射撃開始が400~500m、間接照準では2000~4000m。
• 分間射撃速度は400~600発(地上用)。
• 何らかの架台、2脚、3脚、4脚、車輪を利用し固定して発射する。
• 耐久性は数千発の発射に耐える。
• 分類は地上、車両、航空機、対空、対車両、汎用など。
• 口径20mmまでを機関銃、以上を機関砲とする分類もある。

したがって、上記の3つの条件は機関銃の開発と実用になくてはならないものであった。

連続して発射するということは、特に「火薬性能」の問題が大きかった。黒色火薬は燃焼により多くの煤と煙を発生し、銃の機関部の回転にすぐに影響を与える。何百発も撃つと、被甲してない弾丸は銃腔内に溜まる。また銃身やその他部品の耐久性の高さ、工業技術の発達が連続発射を可能にした。

したがって機関銃の出現は小火器の様々な技術の発展があってのことで、一朝に出たものではなかった。

維新後の日本は、欧米の兵器開発、生産、運用の水準に追いつくべく多大なる努力を惜しまず、早期に小火器の統一を図り、近代的軍隊の整備に励んだ。また新兵器、機関銃にも早くから興味を示していた。(二十二年式小銃:日本は1890年に先進諸国に先駆けて上記の条件を満たした小火器を採用していた。この意義は大きい。)

日本の武器兵器は維新(1868年)後、欧米に追いつけ追い越せと、非常な国力を注力されたが、およそ30年間でその目標は達成されたようだ。

機関銃の種類と機構回転方式としては、①ガス圧利用、②反動利用に大別される。また冷却方式には①空冷、②液冷に大別される。各種の閉鎖機構。それらの組み合わせで多くの種類が存在する。

1890年代後半、日本はマキシム方式を「馬式」、ホチキス方式を「保式」として主にこの両者を比較検討し、ホチキス方式を採用することに決定した。ホチキスはガス圧利用、空冷で、液冷機銃より運搬や運用が比較的に容易であったのが採用理由の一つだった。

日本の機関銃採用の背景は、大陸での緊張と対ロシア戦で予想される「大動員」に合わせた新しい兵器制定の必要性があったためである。

1898年、日本はフランスからホチキス機銃を輸入し、「保式」として制定、日本の6.5mm小銃弾と合わせた口径とし、即国内生産に着手した。オリジナルのホチキス機銃と保式の外観上の違いは、冷却用の冷却板が5枚から7枚に増えていることであった。

保式は推定およそ1000挺が小石川東京工廠で製造され、1904~1905年の日露戦争で使用された。ロシア側は主にマキシム機銃を使用した。

ただし日本で製造された保式機関銃の現物は残されてない。両国ともデンマークのマドセン社に「軽機関銃」を発注した。ロシアには納入されたが、日本には戦後に届いたと言われている。

5 日露戦争が証明した機関銃戦闘の効果

写真②保式機関銃を発射準備する日本兵(パーシング大尉撮影)

ロシア軍による旅順港防衛では、防衛する要塞の60数挺のマキシム機銃で日本側は16000人余の被害を蒙った。

一方、奉天の戦闘における日本軍は268挺の機関銃で間接照準射撃などを使い、英国武官の観察によるとロシア側に多大の損害を与えた。ロシア側の死傷者・行方不明者は9万人に上った。

機関銃は戦闘方法を変え、特に攻城戦、塹壕戦では戦線の硬直化を招き、攻撃側に多大の損害を与えた。

日露戦争はその10年後の第一次世界大戦の雛形であって、大戦では両側ともに戦車が出現するまで機関銃は効率的な兵器であった。

三八式機銃諸元(保式機関銃の改良型)

口径 6.5mm
全長 145cm
銃身長 77cm
重量 28kg
発射速度 600発/分
給弾 30発射保弾板使用
三脚架 ホチキス型と三年式型
推定生産数 1000挺

写真③ 現存する三八式機関銃6.5mm

7 南部麒次郎氏の開発‐日本は「ホチキス」国だった

同氏が中心となり、小石川工廠で、1905年には保式を「三八式機関銃」、1914年に「三年式重機関銃」を制定し、爾後日本はホチキス国として第二次大戦前までほとんどの機関銃は南部氏開発によるホチキス方式であった。十一年式軽機、九一式車載機銃、八九式航空機旋回機銃、九六式軽機関銃など、九二式重機関銃、九九式軽機関銃など。

日本の機関銃を総称して外国では「ナンブ」と言うことがある。

南部麒次郎氏は有坂大佐のあとを次ぎ、東京小石川小銃製作所の責任者として、日露戦争中から、機関銃だけでなく、さまざまな小火器の開発に従事した。特に60万挺製造された三十年式小銃の後継、三十五年式小銃、三十八年式小銃、南部式拳銃などの開発者である。十一年式軽機関銃(1922年)は箱型弾倉を使用しない独特な設計だった。

7 航空機と車両が機関銃を発達させた

第一次大戦後、航空機、戦闘車両に搭載されるために種々の機関銃が開発された。

日本は1930年代後半から機銃にビッカーズ、エリコン、ラインメタル、ブローニング等の世界の主要な技術を多く採用し、航空機、艦船に使用した。特に、ブローニングに関しては本国アメリカにはない20mm以上の大口径機銃を開発したことで有名である。

現在、日本の機関銃の実物はアメリカの主な軍事博物館に数多く収蔵されており、それらは日本が機関銃という兵器とその技術を積極的に採用し研究したことを示している。

8 19世紀末の機関銃採用の歴史的意義

19世紀末から20世紀初頭、日本が新兵器「機関銃」を採用できたことは、国家が近代的軍隊、すなわち教育、規律、組織、兵器・武器技術、兵站などの総合的な整備が進んでいたことを意味する。さらに社会的には、工業力、輸送力、組織力など「国家」としての力、つまり帝国主義の象徴であったと言ってよい。

詳しくは拙著「日本の軍用銃と装」「日本の機関銃」を参照されたい。

参考文献:

The Machine Gun 1-5 by G.M.Chinn Hatcher’s Notebook by Jullian S. Hatcher The Social History of the Machine Guns by John Elk Japan Arm and Ammunition Catalogue by Fred .L. Honneycutt Russo Japan War] 青木保著『兵器読本』中原正二著『火薬学概論』1983 年産業図書南部麒次郎著『或る兵器発明家の一生』1948 年天竜出版社山縣保次郎著『小銃と火砲』三省堂銅金義一著『銃器の科学』山海堂各種『兵器取り扱いの参考、取り扱い法』陸軍兵器学校他特に『三八式機関銃取り扱い法』『三八式機関銃取り扱い上に関する注意』桑田悦、前原透著『日本の戦争・図解とデータ』1982 年原書房大江志乃夫著『日露戦争と日本軍隊』立風書房『兵器技術教育百年史』1972 年工華会編『日本の小火器徹底研究』小銃・拳銃・機関銃入門佐山二郎著2000 年光人社『日本陸軍史歴史編』教育社

他、各種映像